あかねの日常ハンティング

あかねの日常ハンティング

刹那な毎日をハントしていきたい。毎日一歩一歩。旅と日々について

社会的排除と生きづらさの克服を目指して

 

 

こんにちは、龍谷大学で行われたシンポジウム『社会的排除と生きづらさの克服をめざして』に参加してきたアカネです。

 

龍谷大学は仏教の大学ということもあって、今回の第二テーマは『社会的包括(ソーシャル・インクルージョン)と宗教』というものでした。

4名来ていたパネラーのうち、3名が宗教家でキリスト教と仏教2人。(宗派は割愛)

もう1名は生物学から美学・現代アートに文転された准教授の方でした。

 

流れは、

挨拶

→『社会的包括とキリスト教~構造的暴力と自殺を例に~』

→『違いを面白がるために~視覚障害者の事例から~』

→『誰も排除されない社会をめざす~多文化な現場から、お寺から~』

→『人と課題と繋がる場~地域資源としての寺院の可能性~』

→パネルディスカッション

 

でした。

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では、今からそんなシンポジウムを受けて、

私がどんなことを考えたのかアウトプットさせていただきたいと思います。

 

シンポジウムはじまりはじまり

「あ~生きていくん、しんどいな~。」

「この先考えるとウンザリするな~。」

 

と思ったことはないでしょうか。

それも、「明日〇〇があるから。」という理由ではなく、今の状況を踏まえた上での漠然としたものを。

 

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私はあります。

「うわ、まだ22歳か、、、。40歳で折り返し地点、、、?やってらんねーーー!」

とか、

自分や上司、駅にいる大人を見て「うーーん、生きるってなんやろ。苦行ってことなんかな。」

とか思ったりしました。

ネガティブな思考回路かもしれませんが、事実でした。

 

つまり、“生きづらいな”って思いました。

 

人々は、後世の人間が生きやすいようにと願って、日々努力して参りましたが、

果たして、今、どうでしょうか。

 

生きやすい世の中ってなんなんだろう。

 

AIを使うこと?主婦だけではなく社会でも働く“お母さん”になること?

LGBTの人がテレビに出ること?和式のトイレがなくなっていくこと?

 

色んなベクトルで“生きやすさ”を目指していると思います。

 

だけど、世の中の価値観って、人の色眼鏡って、なかなか変わりにくいもの。

 

今でも残業して仕事すること、休日に働く人は「偉い」し、転職をする人や会社を辞める人は堕落者だし、大手は認めやすいけどベンチャーはよく分からないと思っている人が多いのではないでしょうか。

 

そして、年を重ねるにつれて、自分の経験を信じて、『自分の考え方が正しい』とそればっかり思ってしまう。

相手の価値観や目指しているところを度返しして、悪い意味で「自分だったら」という回答をしてしまう。

 

つまり、色眼鏡で見てきた世界を正しい価値観であると思い込んで、その他を排除しようと無意識にしてしまう。

 

シンポジウム、初めの挨拶で「互いにいがみ合うのではなく、拝み合う」「“正しい”と“正しい”が争いになる」という言葉があったけれど、本当にそうだと思います。

 

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なぜ人は自分が優れていると主張するために、他を引き合いに出して見下すような言い方をしなければ、自己でいれないのでしょうか。

私もよくしてしまうので、悲しいのですが、コレは自分自身が自分のことをちゃんと肯定してあげれてないのではないかと思います。私がまさにそうだからですが…。

だから、自信のない私は他を批判して「自分は正しい」というポジションを、知らず知らずのうちに取ろうとして「私は、ここ(上の方)に居る。だから、大丈夫やんね?」としてしまっています。

 

自分の立場やプライドを守るために、「自分は正しい。だから、、、」と他を批判および見下したりするのではなく、自分がちゃんと自分を肯定して自信を持ってあげる、そして揺るがぬ自己で他を尊敬するまなざしを持つ。

 

ここを気を付けたいな~と思います。

「自分も正しい、そして君も正しい。」そして拝む。(笑)

平和な社会になりそうです。

 

社会構造と自殺の関わりについて改めて考えた

「自殺」と言えば、まるで個人的な問題に聞こえます。

例えば、「彼女は精神的に弱かったから」とか「いじめられる方にも問題がある」とか「その会社の業務過多が問題だ」とか。

 

「彼女が精神的に弱い」と思われたのは、彼女の人の気持ちが分かる繊細なヒトだったからかも知れないし、教育の影響かもしれないし、地域性が関係しているのかもしれない。

「その会社の業務過多」は問題ではあるが、その業務過多を生み出している世の中の競争の速さや、営利主義が強すぎるところや、転職や個人事業主への転身は批判的な目で見られることが多いとかが要因の一つかもしれない。

 

つまり、「自殺」には、複数の、そして広範囲の、「社会」というものが強く関わっているのだと思いました。

 

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身近なところで言うと、昔栄えていた商店街が廃れていっている。(店を閉める=自殺)

それは、時代の流れとか、商売人の高齢化とか、いろいろあるけど、

私自身はその「社会」につくってしまっている側なのではないかと思いました。(自殺に追い込む社会構造)

 

商店街の小さなお店で買い物なんて、いつから行っていないだろう、、。

布団は大手の家具屋さんで買っているし、野菜は八百屋ではなくスーパーで買っているかも。

 

私自身が、大好きな街を廃らせている社会構造の一部だったのです。

 

大好きな街並み、続いてほしいなら、

まず自分の消費行動から変えなければならないなぁ、、、。

というか、個人商店から買い物したいなぁ、、、。

そんなことを思いました。

 直接的な「人が死ぬ」という自殺ではありませんでしたが、長年やってきた商売が廃って自殺に追い込まれる人も少なくないのではないでしょうか。それって、その人だけの問題では無いんだなぁと改めて考えたのでした。

 

同じモノを見ても同じ捉え方をしているとは限らない

「違いを面白がる」というテーマのとき、障害を持った方や認知症になった人とどう向き合っていくかというところで話が繰り広げられていました。

 

そんなとき、「同じ『紫』を見ても、ラベンダー色と答える人と昔の着物に使われていた色と答える人がいたりと差異がある。同じモノを見ているからといって同じモノを捉えているとは限らない。」という話がありました。

 

これって障がい者でなくても認知症でなくても起こり得ること。

今までのバックグラウンドがあって生まれた『紫』という認識は、きっと理由なく他の人の認識に合わせる必要もないし、自分のコトバがあるということ。自分の捉え方があるということは美しいことだと、考えてみるのも良い気がします。

また、話し手は自分はこういう認識だという説明を忘れてしまう場合が多いので、誤解は無いように気をつけなければ…と改めて思いました。

 

虹色は何色?

お次の講義では、ことばは区切りを生み出していることや、多文化社会で生きる為の事例とか、宗教同士の共生とか、なにかと区切って考えた方がやりやすいのでそうしてきたが、ソレで生まれた歪みはどうするかという話でした。

 

 例えば『虹』。何色に見えるかって、それってどこかで区切って、判断しやすいようにしていますよね。

 また、言語の違いでも表現する範囲が変わってきます。例えば、『唇』と『リップ』は表す範囲が異なっていて、『リップ』は髭が映える部分も表すそうです。

 

私たちは知らず知らず、どこかで境界線を作りたがるし、排除することで判断しやすくしています。

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境界線を引くことで、相手を理解しやすく、存在を認めやすくなる場合もあるので、つまりは、相手を理解するように努め、存在を認められればいい訳です。

 

「言葉」は時に排除的な気持ちにさせたり、どちらかを上に立たせた状態になってしまうこともありますが、言葉による排他的なフィルターなどかけず「あなた」を見て存在を許すことが肝になってくるのだなぁと思いました。

 人は気付くものです。この人は私のどの部分を見ようとしているんだろう、、、と。

 

 私が一番はじめにされたくない質問があります。

「何してる人なの?」という質問です。

つまり「弁護士」と答えれば「この人は努力家で尚且つ賢いんだ。」というフィルターを追加でき、「フリーター」と答えれば「夢追い人?それとも親の関係で苦労した人かな?」というフィルターがつけられたりします。

そしてカテゴリーに分けて、自分にとっての理解をしやすくするのです。

「自分はそうじゃない」って思っていても、ココの時点で相手を敬う度合いが変わってきたりしているのではないでしょうか。

 

 「この人は、そんな言葉で私を何かにくくりつけようとしている、、、。」と思ってしまい、悲しい気持ちになります。

 

 けれど、今回思ったのは、

それでも「わたし」の「一部」でも知ろうとしてくれているんやなあ、と感謝すること。こちら側から許すこと。

 

私は今まで「初めから『何してるか』を重視してカテゴリー分けする人間」というカテゴリー分けをしていた気がします。反省。

そして、そのカテゴリー先は『「わたし」ではなく「〇〇をしているわたし」を見る人』=疲れちゃう。つまんない人。

になっていました。反省!改めます。

 

 おわりに

パネルディスカッションの時間で、コーディネーターが話してくれた人に質問や感想を求めるコーナーがありました。

そこで最近の狂気的殺人事件でSNSが使われていたことが例にあげられていました。

 

それはSNSでしか「辛さ」を吐けない人たちであふれているのではないか、ということでした。

確かに、人前では元気に振舞うし、会社では「みんな、頑張ってるのに私だけ愚痴言えないな。」とか気にしてしまってブラックな部分は言えないけど、そこで抱いたものってSNSに吐き出しているのではないでしょうか。

 

 SNSで吐いたところで、元気が出るかって言われたら、そうじゃなかったりする。

なんとなーくスッキリもするけど。

 

やはり、学校や仕事場、家庭でもないところに、「居場所」というのは必要なんだろうと改めて思いました。

いつでも迎えてくれる、肩書のない「わたし」の存在を許してくれる、そんな場所を。